自由主義と民主主義

    グローバル化の進展に伴い、各国で反グローバリズムの運動が勃興しています。各運動は、各々大義名分を掲げており、個別の検討は控えますが、大きな潮流として、民主主義の復権が叫ばれています。グローバリズムの名の下、各国の経路依存的な規制が平準化する中、各国の歴史や文化を反映した制度が失われるとか、国民的な連帯を基礎とする福祉国家的な制度が失われるとか、種々の主張が見られます。

 一方、グローバリズムの背景には、自由主義思想があるとされています。自由主義という考え方には、種々の論者がおり、説明するのは非常に難しいのですが、大きな特徴として、普遍主義的傾向が見られ、人権や法の支配、立憲主義といった思想が中核をなしています。誰であれ、人として生まれた以上は、個人として尊重され、自由が保障されるべきで、国や地域、歴史によって左右されるべきではない、ということでしょう。

 第二次大戦後、上記の二つの思想は、和解の時代を歩んで参りましたが、今ではそれがつかの間の和解であったことが明らかになりつつあります。

   そこで、まずは、この二つの思想の歴史を大まかに紹介してみたいと思います。

    人類史において、自由主義の思想的影響はすさまじく、資本主義市場経済との相性も抜群でした。所有権や私有財産制といった構想は、人間社会の巨大化、科学技術に関する知識の爆発的増加をもたらしたと言っても過言ではないでしょう。

    一方、民主主義という思想には常に戦争がつきものでありました。比喩的な表現になりますが、戦争を遂行する上で勝利のために多くの人民を動員する必要があったため、戦後、戦争に動員された者に対して参政権を付与して、その労に報いてきたわけです。

    このように、両思想は本来、当然にセットになるものではなく、互いに影響を及ぼしながらも、独自の歴史を歩んできたのです。これが、世界大戦を経る中で、自由主義陣営が戦争に勝利することで、思想的に合流していきました。自由主義陣営も、多くの国民を戦争に動員したため、民主主義的な要請に応じざるを得なかったのでしょう。ここに自由民主主義が確立し、階級的には、自由主義を担うエリートと民主主義の主役である大衆の和解がなされたのだと思います。

    私が和解という表現を用いたのは、自由主義と民主主義の双方に譲歩があったと思うからです。多数決で覆せない人権の領域と多数決で決めるべき領域を調整したのです。このような調整ができたのは、エリートにも大衆にも世界大戦は二度としたくないという共通の目標があり、そのために、互いに譲歩をして、各領域を設定したのです。

    その後、戦後社会では、両思想が互いに影響を及ぼし合い、越境を開始します。例えば、社会的自由と言われる自由権は大衆の豊かな生活という民主主義的要請にも支えられていましたし、競争主義的な立法も国会の多数決を経たはずですが、自由主義的要請にも支えられていました。

   和解の時代に自由主義と民主主義の越境が生じた理由は様々あると思いますが、背景の一つには、大衆のエリート化、エリートの大衆化ともいうべき現象があったと思います。人類史上まれに見るほど多くの人間が大学に通い、高等教育を受け、上流階級へと上昇する機会を保障されていたのです。大衆が大学などのエリートの領域に大挙して出現し、混ざっていったのです。人が混ざれば、思想も混ざり、越境も生じたのではないでしょうか。

    さて、現代に話を戻します。

    このように考えると、現代において、民主主義と自由主義に分断が生じるようになったのは、大衆とエリートの双方が譲歩できなくなっているからのように思えます。

    まず、現代で世界大戦が生じる可能性は低く、どこか、歴史上の問題のように感じている方も多いのではないでしょうか。テレビやネットで各地の紛争が報じられても、他人事のようにしか感じない、というのが本音の方も少なくないと思います。現代の国際社会では、世界大戦を開始するコストはあらゆる側面から見ても、とてつもなく高いものとなっており、放っておいても世界大戦には至らないだろうと、世界大戦回避という共通目的の現実味が失われているのです。

    また、大衆とエリートの間の意識としても、和解の機運が失われているように思われます。大衆はエリートに不審を抱いていますし、エリートも大衆に対して諦観にも似た境地にあるように見えてなりません。結局、貴賤を問わず、みんなが死ぬような思いをしたということが、両者の相互理解の唯一の寄る辺だったのでしょうか。

    このような現代社会において、再び民主主義と自由主義が手を携えるには、どのような方法があるでしょうか。そもそも、手を携える必要などないという方もいるかもしれませんが、そういった議論は別の機会にするとして、次回以降では手を携えるための条件を考えてみたいと思います。

SNSと民主主義について

   皆さんはSNSを全く利用しない日はあるでしょうか。ライン、フェイスブックツイッターなど、私たちの身の回りには、SNSがあふれており、毎日、大量の情報がアップロードされています。皆さんも、フェイスブックで知人の投稿に「いいね」をしたり、芸能人のツイッター公式アカウントから、最新のイベント情報などを取得したりしているのではないでしょうか。

 さらに、私たちは、上記のような情報の受信だけでなく、情報の発信をすることも増えているように思います。「インスタ映え」という言葉もはやりましたね。SNS前とSNS後では、情報発信の主体の数が、大きく変化したように思われます。実際、ツイッターデモなども行われるようになりました。もちろん、コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、リアルなデモができないのでネット上で行っている、という側面はあるでしょうが、それでも、ネット上のデモの方がリアルなデモよりも気軽に意思表明できる点は否定できないように思います。また、フェイクニュースが増加している、誹謗中傷が激化している、といった点も情報発信の主体が増加したことをよく示していると思います。

 このような状況は、いわば、情報発信の民主化といえるように思います。かつては、報道やマスメディア、有名人など、一部の存在しか情報発信の主体になれなかったのが、私やあなたを含む、誰でも情報発信ができるようになったのです。特に、ツイッターは、まさに「つぶやき」ですから、SNSの中でもかなり気軽に情報発信できる媒体に思えます。

 一方で、情報発信に際して、「一度よく考える」という意識はますます薄れているように思います。ツイッターにおいて、文章を推敲して投稿する方がどれだけいるでしょうか。私も人のことをとやかく言える筋合いではありません。私も、この文章について、特に推敲らしい推敲などすることなく、作成しているのが現実です。

 この傾向は、時代の流れが、「より早く」を求めていることと相まって、非常に強い傾向に思われます。すぐに投稿しなければ、「みんな」と喜びや悲しみといった感情を共有できず、反応も悪くなりますからね。

 このように、情報発信の民主化と民主政治の両立は、国民国家が初めて直面する課題です。歴史上、直接民主制を採用した都市国家はありましたが、これは現代の国民国家とくらべれば、市民の数も少ないですし、市民の多様性も乏しかったように思われます。多様な多数の市民による情報発信と国民国家は果たして相性がよいのか、検討すべきでしょう。

 これについては、社会契約論という構想を参照することが有益と存じます。社会契約論は、封建社会を脱して近代社会を構築していく時代において、国民国家市民社会に関する理論モデルを提供しました。社会契約論の論者は多数おり、論者によって前提とする条件が異なりますが、ここでは、最も有名と言っても過言ではない、ルソーを取り上げましょう。

 ルソーは、社会契約について、興味深い指摘をしております。詳細は彼の著作を読んでいただきところですが、ルソーは、社会契約にあたり、市民同士がコミュニケーションせず、しっかり自分で考える必要がある、とも読める指摘をしているのです。正直、私も初めてこの一節を読んだ際に、「え?なんで?」という印象を持ちました。私は、学校の社会科などで、「民主主義においては、市民同士が議論して、少数者の意見を聞くべきなのだ」と習ってきたのに、ルソーは民主主義を擁護する気がないのか?と思いました。長く、私には意味不明な文章でしたが、経済学者らがこの点についてとてもわかりやすい説明をしています。詳細は、社会的選択理論と呼ばれる分野の文献を読んでいただきたいと思いますが、要は、ルソーとしては、コミュニケーションによって、間違った意見に流されてしまうことを危惧しているのではないか、ということのようです。現代でも、間違った意見を言う人がとても影響力のある人物の場合、その波及効果は甚大で、間違った意見が多数派になるかもしれません。

 一方、我々は、24時間365日という、有限な時間を生きており、すべての政策について、独力で深い見識を持つことなどできません。私たちが政策に関する知識を獲得するためには、専門家などの意見を聞くほかないのです。私としても、このような、情報収集としてのコミュニケーションまで、ルソーが否定したとは思えません。むしろ、ルソーは、立法者なる概念で、誰の利益にも肩入れしない、大変立派な、神のような人物による立法についても言及しており、現代風にいえば、(決して現実に達成はされないが、)「完全情報」者になるために情報交換をすることまでをも否定する趣旨ではないように思われるのです。

 まとめると、人間が意思決定を行うに当たって、情報収集の場面ではコミュニケーションを積極的に行うべきだが、最終的な決定や投票の場面では各個人が独立して行う必要がある、ということなのでしょう。

 さて、SNSに話を戻します。このような検討からすれば、基本的に、情報収集の場面とそれと表裏をなす情報発信の場面では、積極的にSNSを利用して、様々な見解に触れるべきように思われますが、一方で、最終的な意思決定や行動の場面では、SNSの利用には慎重になるべきであり、収集した様々な意見を自分の力でよく考えて決断することが必要なのではないでしょうか。

 ところが、このような教訓を現実社会で実践することには、大きな困難が伴います。なぜなら、現実社会では、情報収集の場面と意思決定や行動の場面を厳密に分離することができないからです。むしろ、実際に行動する必要に迫られた段階ではじめて情報に触れることの方が多いのではないでしょうか。それなのに、情報収集と行動が接近すればするほど、他人の間違った意見にもとづいて行動する可能性が高くなります。皆さんにも、誹謗中傷を聞くと、その瞬間から死にたくなった経験や、議論が白熱したまま決断を迫られてしまった経験もあるのではないでしょうか。

   情報収集と行動が接近するために生じる間違いに対して、個人に可能な対策としては、情報収集と行動の間の時間的距離をしっかりとって、ゆっくり決断することくらいだと思います。誹謗中傷に触れても行動を起こすまでに時間をおくとか、政策論争は選挙当日からできるだけ遠く離れた時期に行っておくとか、そういった対処が考えられます。議論やコミュニケーションを戦いの場として位置づけるのではなく、情報収集の場面として位置づけたうえで、議論と決断の時間的距離を保つことが、重要なのです。

   もっとも、個人としての人間にはできないが、集団としての人間に可能な対策は、もう一つあるように思います。それは、多様で多数な人間を母集団として判断することです。時間を稼ぐことができない場面の決断においては、頭数を増やして間違う可能性を低減するという発想です。例えば、誹謗中傷でつらくなったら、家族や友人、カウンセラーなどの多様な人物に連絡をとって、自分以外の人の決断を参照したり、投票日当日に議論してしまったら、議論に参加しなかった多様な人たちの決断を参照したりする、ということでしょう。

    現代の国民国家における理想的な意思決定方法としては、時間を十分にとって、独力で決断するという個人主義的方法と、限られた時間であっても、多数かつ多様な決断を参照するという集団主義的方法の両方を実践すべきなのでしょう。民主政治との関係では、市民各個人は、積極的にコミュケーションをとって情報収集をしたのちに、十分に時間的距離をとって、独力で考えて決断しつつ、市民社会全体としては、多数かつ多様な市民が選挙に参加するという状態が理想なのではないでしょうか。また、誹謗中傷やヘイトとの関係では、人格非難をされてもすぐには行動せず時間を稼ぐべきだし、追い詰められた場合には、たくさんの人に相談して多様な決断を参照すべきなのです。そのような仕組み作りを、みんなで考えていければいいなと思います。

 駄文失礼しました。

自由意思はあるのか?

   皆さんは、スマホにアプリをダウンロードする際に、アプリの利用規約を読んでいますか?おそらく、多くの方は、全く読むこともなく、「同意する」「次へ」という部分をタップすることの方が多いのではないでしょうか。

 法学の世界では、人間は(自由)意思に基づき行為すると考えられており、意思があるからこそ、行為による責任を負ったり、行為による利益を享受したりすることが正当化されてきました。この原理は、資本主義市場経済を駆動させ、競争を促進させることと非常に相性が良く、人類を発展に導いたと言っても過言ではないでしょう。

 しかし、われわれに意思があるのか、と問われると、正直良くわからなくなります。冒頭のスマホアプリの例で、利用規約の内容を具体的に理解して使用するという意思があるようには思えません。

 これについては、多くの先達が頭を悩ませてきました。

 ある者は、人間にあるのは、欲望と行動だけで、それらを介在する意思などないといいます。例えば、「職場に移動したい」という欲望があることは間違いないし、「電車に乗った」という行動があることも確実ですが、それらの間に「鉄道各社との間の鉄道旅客運送約款を確認して同意する」という事実はありません。また、多くの新入社員は、上司や先輩に言われたことをやっているだけで、意思の要素は希薄なのではないでしょうか。さらには、酔っぱらって帰宅する際、経路も何も覚えていないが、朝自宅の廊下で目覚めたということもあるでしょう。ほかにも、依存症患者が自由な自己決定にもとづいて薬物やアルコール、ギャンブルに手を出している、と言い切れるでしょうか。意思などフィクションだという主張もあながち排斥できません。

 またある者は、意思がないとまでは言わないが、自由とは本来的には行動の問題でもあるはずで、意思の問題のみに注力しすぎた結果、いびつな意思主義になったのではないかともいっています。もともと、近代的な自由とは、奴隷を開放して行動の自由をもたらすことに主眼があったはずで、奴隷でも有していた内心の自由を殊更に強調するのは不自然である、というのです。この論者には、やや偏った歴史観があるようにも思われますが、意思の自由に比べて行動の自由を脇に置くことが多すぎるのではないかという視点は、傾聴すべきように思います。例えば、ホロコーストなどを想像すればわかるでしょう。ナチス体制下でユダヤ人は居住地域を制限されただけでなく、強制収容所へと強制的に連行され、殺害されていったわけですが、ここでは、行動の自由を無視してはならないと思います。

 さて、現代ではいかに考えればよいのでしょうか。これからはICTやAIの時代と言われていますが、これまで以上に意思の要素が希薄化することが懸念されています。なぜなら、AIなどが、最適処理された結果を自動的に実現してくれるかもしれないからです。このような状況になれば、人と人の関係においても、協議をして意思を合致させるという「契約」モデルよりも、インターフェースの仕様さえ揃えておけば良いという「コード」モデルの方が、生活の場面で占める割合が増えるとされています。先ほど紹介した、意思など存在せずフィクションだという方々からすれば、「それみろ。意思など観念する必要すらなかったではないか。」といったところでしょうか。

 私としては、ICTやAIの時代になっても、意思の問題はなくなるどころか、むしろ強調されていくように思います。生産活動はAIに任せてしまって、欲望や感情と真剣に向き合い、意思を再考する未来もありうるのではないでしょうか。実際、SNSは感情のはけ口のように利用されており、われわれに意思とはなにかについて再考を促しているように思えます。

 駄文失礼いたしました。

権力の距離感

    今回は権力を分けるメリットについて考えてみたいと思います。

 まず、私経済の文脈では、分業によるスリム化を図るというものがありますし、公共の文脈では、権力の暴走を防ぐというものがあるのですが、両者の趣旨は異なります。つまり、分業による効率化というニュアンスだけならば、権力を抑制する原理は必要ありませんが、権力の暴走を止めるというニュアンスでは権力を抑制する原理が要求されるのです。
 権力抑制の手法としては、大きく二種類あるように思います。

 一つは、権力と権力にチャックアンドバランスを働かせる方法で、権力同士を厳格に分離したうえで、それら権力間に対立関係を生じさせることで各権力を抑制しようとするものです。この方法は、権力当事者以外に権力の暴走による不利益を被る者がいる場面で採用されることが多いように思います。例えば、憲法の世界では、三権分立が唱えられ、立法・行政・司法がそれぞれ互いに抑制と均衡を働かせて、国民の人権や権利、利益を保護しようとしているのです。
 もう一つは、分離している権力者に、他方当事者の立場も兼ねさせる方法で、権力自体は分離させつつも、権力による影響の帰属先を一致させて、暴走を防ぐものです。例えば、ストックオプションといって、経営者を株主の立場にもたたせることで経営者が暴走して株主利益を無視した経営をすることを防ごうとするものや、現代的徴兵制論のように、国民を軍人の立場にもたたせることで国民が暴走して軍人に無謀な戦争を命じることを防ごうとするものなどを挙げることができます。この手法は、分断された権力当事者が他方当事者の利益を無視して暴走することを回避しようとするもので、権力当事者以外に不利益を被る者を想定できない場合に有効な方法に思われます。
 このように、権力抑制の原理といっても、いくつかの方法があり、権力の距離感の議論というのが正しいように思います。現実の権力は、完全な一致も完全な分離もあり得ず、その間の無数のバリエーションの中にあります。各文脈に応じて、丁寧な検討をしていく必要があるでしょう。
 また、世界には様々な制度があります。この際、比較法的な見地から、日本の権力分立論を見直しても面白いでしょう。公権力だけでなく、私企業も題材にすることも興味深いかもしれません。なぜなら、民主主義を背負うのか否か、公共財の提供を担うのか否か、という点で、権力同士の距離感のデザインに差があるようにも思われるからです。
 駄文失礼いたしました。

自然と理由

 われわれの生活においては、しばしば、理由の説明を求められることがあります。例えば、「企業は、自社の経営状況について、市場や株主、従業員などのステークホルダーに対して説明する責任がある」とされていますし、「政治家や政府の説明責任が果たされていない」などとコメンテーターが指摘をすることもしばしば見受けられます。このような考え方の裏側には、われわれ人間の判断や行動には理由があるはずだという思想があるように思います。特に、「通常」や「原則」と異なる行動をとった際には、その説明責任の程度は高くなるように思います。
 そして、昨今では、人間だけでなくAIについても説明責任を果たさせるべきだという意見も出ています。私は情報技術について詳しくありませんが、深層学習などのソフトの技術は爆発的に進歩している上、ハードの演算能力も指数関数的に向上しており、画像処理を中心に、AIが人間を超える判断をしつつあるそうです。医療現場では、専門の医師でさえ気が付かなかった治療法を提案するAIもあると聞きました。このように、AIの能力は、だれもが認めるところとなりつつありますが、AIの専門家によれば、AIには、AIの判断の理由を説明する能力はないそうです。この点をとらえて、AIが人間には検証できない判断過程に基づき、結論だけを提示することに危機感を覚え、人間がAIに隷従しないためにも、AIにも説明責任を果たさせてほしい、と意見しているようです。
 これについては、情報技術の専門家から、次のような反論がなされているようです。つまり、そもそも、自然自体に究極的な理由などないのに、自然をあるがまま認識するAIに説明責任を求めること自体が見当違いである、というものです。彼らの主張の詳細はよくしりませんが、おそらく、「意味づけ」という過程自体、人間が勝手に行っている固定観念なのだから、それを「AI」に押し付けても、自然をあるがまま認識するAIには「理由」など応えようがない、というもののように思われます。
 この指摘は、おそらく正しいのでしょう。そもそも、科学の歴史自体が、人間の思い込みを打ち破る事実の発見や推論の連続だったわけで、「意味付け」を「意味付け」で覆してきたあゆみなのです。例えば、天文学や物理学の世界だけでも、天動説が地動説に打ち破られ、ニュートン物理学が相対性理論にとってかわられてきた歴史がありますし、はるか昔は、神話が自然現象の理由として使われていました。このように、科学も神話も、特定の時代や地域の人間にとって、自然現象を理解可能にするための、人間中心の意味づけの手段なのです。つまり、これからも、自然科学は、時代や地域に応じて発展していくとしても、せいぜい、人間による暫定的な解釈を、パラダイムとして更新し続けることしかできず、人間はいつまでたっても自然をあるがまま理解することなど不可能なのではないでしょうか。
 そうだとすれば、AIと人間では、そもそも自然に対するアプローチが異なります。人間は人間中心に自然を観察して推論しますが、AIは人間も自然の一部として認識して結論を提示します。AIと人間の間に、このような通訳不可能性がある中で、AIが人間に理解可能な説明責任を果たすことなどできないように思われます。結局、AIの結論は、人間が解釈して、人間に説明するほかないのです。
 このような哲学的状況は、法にいかなる影響を与えるでしょうか。仮に、人間がAIに説明責任を求めない生活に慣れてしまい、人間にも説明責任を求めなくなった場合、法はどうなるでしょうか。具体的には、いちいち説明責任を求めることができないほどに、AIが生活に密接にかかわるようになったら、法はどうなるのでしょうか。思考実験をしてみましょう。
    法は、規範の領域であり、人間の活動を正当化したり非難したりする「根拠」となりますので、「意味づけ」そのものです。人間が「意味づけ」を求めなくなれば、「法」の世界にも正当化や非難の「根拠」が求められなくなるため、「法」である必要はなくなり、「コード(規格)」で十分になるのです。このような状況に対して、AIに法人格を認めて、AIを保険等に加入させる形で責任を取らせようとする意見もあるようですが、そもそも、説明責任を果たせないAIに法人格を与えたところで、規範が復権することはなく、それは「コード」でしかないのではないでしょうか。
この思考実験のような段階に至れば、以前紹介した、「コードが法にとってかわる」世界が現れるのかもしれません。
    駄文失礼いたしました。

共同体について

 都市集中と地方過疎の進行が指摘されて久しくなりました。そして、今後は地方の少子高齢化と相まって、地方社会に深刻な影響が生じるとされており、共同体の維持ができなくなるとされています。特に、インフラは深刻で、ライフラインであるはずの水道・電線の維持すらできなくなると言われています。
 インフラを維持できない原因は大きく二つあるようで、一つは、過疎地は分散しており、インフラを維持するコストが莫大であるのに対して、利用者が少なく、収益化が難しいことを指摘するもので、もう一つは、インフラ設備の老朽化やインフラ保全の人材不足を指摘するものです。
 これらに対する対策としても、大きく二つの方向性があるように思います。一つは、ITやAI、ブロックチェーンといった科学技術で解決しようとする方向と、もう一つは、富の再分配で解決しようとするものです。私は科学技術にも経済学にも疎いので、各論者の意見の是非をコメントすることはできませんが、いずれにおいても、共同体とは何か、ということが問題になっているようなので、このことを考えてみたいと思います。
 まず、科学技術による解決の文脈でいわれる共同体論は、収益化と関連するもののように思われます。いわば、「限界集落」を情報技術によって「スマート集落」にアップデートし、収益化を図るというものです。もっとも、「スマート集落」においては、「スマートシティ」同様の問題があり、私としては個人情報の利活用に関する問題に興味があるところですが、ここでは、民間企業の参加確保の問題について考えてみたいと思います。
 第一に、集落の一定程度の永続性という意味からは、民間企業にプラットフォーマー的な参加をされては困ります。プラットフォーマーの恐ろしさは、マイクロソフトのソフトウェアの更新打ち切りなどで、われわれが日々感じているところです。つまり、プラットフォーマー側の一存で、インフラサービスが突然終了してしまう仕組みにするわけにはいきません。
 第二に、都市工学は総合政策ですので、多くの企業やメーカーの参加が必要になります。ゼネコンだけの参加では意味がなく、インフラ各社、小売業者、モビリティ企業など、多くの民間企業の参加が必要になります。
 このように、継続的かつ多数の企業の参加をいかにして確保するか、いわば、企業も含めた共同体づくりをいかにすればよいのか、という問題があるのです。これについては、ブロックチェーン技術を使って、企業を含めた住民全員にメリットがあるシステム設計をできないか、という提案もあるようです。ただ、直感的に言って、ブロックチェーンとして経済的価値を有するには、多くの利用者が必要であるように思われ、結局、いかに多数かつ継続的な参加者を確保するのかという、最初と同じ問題に帰着するように思います。鶏が先か、たまごが先か、コインの裏表なのではないでしょうか。裏を返せば、ブロックチェーンは共同体の特徴の一端をよく表しているのかもしれません。
 さて、次に、富の再分配による解決でいわれる共同体論ですが、これは、日本全体を大きな共同体とみて、都市から過疎地への富の移転を想定しているようです。これを実現するには、企業も含めた日本国民全体において、過疎地への再配分を容認するコンセンサスを形成する必要があります。つまり、日本国全体が、日本国全体を共同体とみることができるのか、具体的には、日本国全体が、限界集落の未来に継続的な利害関係があると思えるのか、という問題が生じており、ここにおいても、共同体とは何かという問題から逃れることはできません。
 では、共同体とはなんなのでしょうか。共同体は目に見えるものではありませんので、構成員が共同体だと思うことができれば、共同体がある、ということになります。
 もっとも、構成員にとって、共同体があると思うためには、ある程度の社会的実体が必要でしょう。自然科学的な根拠はないにしても、構成員がなんとなく共同体があるといえるような状態ではある必要があります。代表的な要素としては、財やサービスの共用性と意識の共同性で、これらが高度なほど、構成員としては継続的な利害関係があると思えるような状態であるといえるでしょう。
 結論として、科学技術による解決にしても、富の再分配による解決にしても、文脈に差はあれども、共同体を考える上では、共用性や共同性という論題と無縁ではいられないのです。
 駄文失礼しました。

法の縮小? 法の過剰介入?

    昨今、「法の縮小」という指摘がなされる一方で、「法の過剰介入」という指摘もなされるなど、一見矛盾する指摘がなされているような感覚を覚えます。前者は、論者によって差はあるものの、共通する内容としては、「AIやICTといった破壊的技術革新の時代にあって、法律では社会の変化に対応できず、法律に期待される役割を果たせないため、法律以外の方法で紛争に対処しようとする傾向のこと」を指しているようです。一方、後者は、これも論者により差はあるものの、共通する内容としては、「複雑な現代社会においては、本来、私人や社会が自律的に対応してきた分野にまで、国家が法律を根拠に介入していく傾向のこと」を指しているようです。

 これらは、本当に矛盾する指摘なのでしょうか?

    私見としては、近代から現代に社会が変化する中で、法の領域が変化していることと関係があり、両者は矛盾する指摘というよりは、現代社会における、「法」と「コード」(規格)の領域の見直しというべきでしょう。

 まず、「法の縮小」から見ていきましょう。念頭に置かれる主張は、現代の課題解決には、「コード」(規格)が多用され、法が解決策を提示できていない、というものです。例えば、知的財産分野などで指摘されるものとして、法でいくら著作物の複製を禁じても、インターネット上には違法な複製が溢れている現実があり、これに対処するには、法では十分に対処できず、技術に関する原則やガイドラインを定め、業界団体や国際団体が規格化し、そもそも違法な複製ができないようにするほかないというものです。

 では、「法の過剰介入」はどうでしょうか。代表的には、国家が福祉政策や産業政策を策定し、社会や家庭、市場の自由に介入しているというものです。現代社会では、市場の失敗に起因する経済的格差に対処すべく、外交・安全保障・治安維持以外の分野においても、国家が法を根拠に介入してきました。例えば、各種社会保障立法、労働立法、独占禁止立法、消費者立法などです。このような法分野では、社会の不平等を前提に、劣位者を保護する価値判断がなされています。

 両者に共通する視点は、理想としての近代法の前提である、自由かつ自律的で対等な個人による自律的な市民社会というものがなりたたないことを、受容しているという点です。「法の縮小」の視点では、建前上、自由で自律的な個人に差し止め請求権や損害賠償請求権を認めたところで、高度情報化社会では、実質的な意味での権利救済は実現されないことを自覚し、「ガイドライン」や「〇〇原則」などにもとづく「コード」で対処していますし、「法の過剰介入」の視点では、そもそも劣位に置かれる当事者に特別の法的保護をあたえるという価値判断をすることでこれに対処しています。両者とも、もはや、現代が、理想的な近代法の領域では対処できない社会になってしまったことを理解しているのです。

 では、両者で異なる視点とは何なのでしょうか。私の立場からは、司法機関による権利救済の実効性に対する、認識の違いがあるように思います。前者においては、社会の変化のスピードが速すぎるので、司法的救済では間に合わないと考えて、事前に「コード」を作成して予防的に迅速な対処をしようとしているのに対し、後者においては、司法機関が社会の変化に合わせて保護を実質化していくべきと考えて、法文上の権利保護を拡張したうえで、個々の裁判等を通して漸進的に対処しようとしている、という指摘は一応できるように思います。

 もちろん、実際の「法律」や「コード」の規定は多様であり、上記のような安易な一般化では説明できない部分もあります。

 以上の検討からすれば、「法の縮小」と「法の過剰介入」は、対立する思想というよりは、法の現状を異なる視点から指摘するものなのだと思います。両者とも、現代社会が理想上の近代社会とは異なることを受け止めたうえで、現代型「コード」が多用されていることと多くの「特別立法」がなされていることとを、それぞれ指摘しているというのが正しいのでしょう。

 なお、過去にも、法は、規範を具体化するにあたり、「社会通念」のもと「社会常識」といわれる「コード」を参照してきましたが、現代の「コード」は「社会常識」とは生成される過程が異なるように思います。勇み足で乱暴な表現ですが、かつては、市民全体で、漸進的に、何となく、抽象的な、「社会常識」という「コード」を不文の形態で作り上げてきましたのですが、現代では、供給者団体や需要者団体、官庁などの特別な利害関係を有する当事者らが、(将来)社会通念上妥当(になる)と思われる「〇〇原則」「〇〇規格」「〇〇ガイドライン」という「コード」を明文の形態で具体的かつ迅速に作るようになった社会、ということなのでしょう。

 まだ、あまりまとまっていませんが、朝令暮改ブログなので、投稿してみました。また、考えてみたいと思います。

 駄文失礼しました。