SNSと民主主義について

   皆さんはSNSを全く利用しない日はあるでしょうか。ライン、フェイスブックツイッターなど、私たちの身の回りには、SNSがあふれており、毎日、大量の情報がアップロードされています。皆さんも、フェイスブックで知人の投稿に「いいね」をしたり、芸能人のツイッター公式アカウントから、最新のイベント情報などを取得したりしているのではないでしょうか。

 さらに、私たちは、上記のような情報の受信だけでなく、情報の発信をすることも増えているように思います。「インスタ映え」という言葉もはやりましたね。SNS前とSNS後では、情報発信の主体の数が、大きく変化したように思われます。実際、ツイッターデモなども行われるようになりました。もちろん、コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、リアルなデモができないのでネット上で行っている、という側面はあるでしょうが、それでも、ネット上のデモの方がリアルなデモよりも気軽に意思表明できる点は否定できないように思います。また、フェイクニュースが増加している、誹謗中傷が激化している、といった点も情報発信の主体が増加したことをよく示していると思います。

 このような状況は、いわば、情報発信の民主化といえるように思います。かつては、報道やマスメディア、有名人など、一部の存在しか情報発信の主体になれなかったのが、私やあなたを含む、誰でも情報発信ができるようになったのです。特に、ツイッターは、まさに「つぶやき」ですから、SNSの中でもかなり気軽に情報発信できる媒体に思えます。

 一方で、情報発信に際して、「一度よく考える」という意識はますます薄れているように思います。ツイッターにおいて、文章を推敲して投稿する方がどれだけいるでしょうか。私も人のことをとやかく言える筋合いではありません。私も、この文章について、特に推敲らしい推敲などすることなく、作成しているのが現実です。

 この傾向は、時代の流れが、「より早く」を求めていることと相まって、非常に強い傾向に思われます。すぐに投稿しなければ、「みんな」と喜びや悲しみといった感情を共有できず、反応も悪くなりますからね。

 このように、情報発信の民主化と民主政治の両立は、国民国家が初めて直面する課題です。歴史上、直接民主制を採用した都市国家はありましたが、これは現代の国民国家とくらべれば、市民の数も少ないですし、市民の多様性も乏しかったように思われます。多様な多数の市民による情報発信と国民国家は果たして相性がよいのか、検討すべきでしょう。

 これについては、社会契約論という構想を参照することが有益と存じます。社会契約論は、封建社会を脱して近代社会を構築していく時代において、国民国家市民社会に関する理論モデルを提供しました。社会契約論の論者は多数おり、論者によって前提とする条件が異なりますが、ここでは、最も有名と言っても過言ではない、ルソーを取り上げましょう。

 ルソーは、社会契約について、興味深い指摘をしております。詳細は彼の著作を読んでいただきところですが、ルソーは、社会契約にあたり、市民同士がコミュニケーションせず、しっかり自分で考える必要がある、とも読める指摘をしているのです。正直、私も初めてこの一節を読んだ際に、「え?なんで?」という印象を持ちました。私は、学校の社会科などで、「民主主義においては、市民同士が議論して、少数者の意見を聞くべきなのだ」と習ってきたのに、ルソーは民主主義を擁護する気がないのか?と思いました。長く、私には意味不明な文章でしたが、経済学者らがこの点についてとてもわかりやすい説明をしています。詳細は、社会的選択理論と呼ばれる分野の文献を読んでいただきたいと思いますが、要は、ルソーとしては、コミュニケーションによって、間違った意見に流されてしまうことを危惧しているのではないか、ということのようです。現代でも、間違った意見を言う人がとても影響力のある人物の場合、その波及効果は甚大で、間違った意見が多数派になるかもしれません。

 一方、我々は、24時間365日という、有限な時間を生きており、すべての政策について、独力で深い見識を持つことなどできません。私たちが政策に関する知識を獲得するためには、専門家などの意見を聞くほかないのです。私としても、このような、情報収集としてのコミュニケーションまで、ルソーが否定したとは思えません。むしろ、ルソーは、立法者なる概念で、誰の利益にも肩入れしない、大変立派な、神のような人物による立法についても言及しており、現代風にいえば、(決して現実に達成はされないが、)「完全情報」者になるために情報交換をすることまでをも否定する趣旨ではないように思われるのです。

 まとめると、人間が意思決定を行うに当たって、情報収集の場面ではコミュニケーションを積極的に行うべきだが、最終的な決定や投票の場面では各個人が独立して行う必要がある、ということなのでしょう。

 さて、SNSに話を戻します。このような検討からすれば、基本的に、情報収集の場面とそれと表裏をなす情報発信の場面では、積極的にSNSを利用して、様々な見解に触れるべきように思われますが、一方で、最終的な意思決定や行動の場面では、SNSの利用には慎重になるべきであり、収集した様々な意見を自分の力でよく考えて決断することが必要なのではないでしょうか。

 ところが、このような教訓を現実社会で実践することには、大きな困難が伴います。なぜなら、現実社会では、情報収集の場面と意思決定や行動の場面を厳密に分離することができないからです。むしろ、実際に行動する必要に迫られた段階ではじめて情報に触れることの方が多いのではないでしょうか。それなのに、情報収集と行動が接近すればするほど、他人の間違った意見にもとづいて行動する可能性が高くなります。皆さんにも、誹謗中傷を聞くと、その瞬間から死にたくなった経験や、議論が白熱したまま決断を迫られてしまった経験もあるのではないでしょうか。

   情報収集と行動が接近するために生じる間違いに対して、個人に可能な対策としては、情報収集と行動の間の時間的距離をしっかりとって、ゆっくり決断することくらいだと思います。誹謗中傷に触れても行動を起こすまでに時間をおくとか、政策論争は選挙当日からできるだけ遠く離れた時期に行っておくとか、そういった対処が考えられます。議論やコミュニケーションを戦いの場として位置づけるのではなく、情報収集の場面として位置づけたうえで、議論と決断の時間的距離を保つことが、重要なのです。

   もっとも、個人としての人間にはできないが、集団としての人間に可能な対策は、もう一つあるように思います。それは、多様で多数な人間を母集団として判断することです。時間を稼ぐことができない場面の決断においては、頭数を増やして間違う可能性を低減するという発想です。例えば、誹謗中傷でつらくなったら、家族や友人、カウンセラーなどの多様な人物に連絡をとって、自分以外の人の決断を参照したり、投票日当日に議論してしまったら、議論に参加しなかった多様な人たちの決断を参照したりする、ということでしょう。

    現代の国民国家における理想的な意思決定方法としては、時間を十分にとって、独力で決断するという個人主義的方法と、限られた時間であっても、多数かつ多様な決断を参照するという集団主義的方法の両方を実践すべきなのでしょう。民主政治との関係では、市民各個人は、積極的にコミュケーションをとって情報収集をしたのちに、十分に時間的距離をとって、独力で考えて決断しつつ、市民社会全体としては、多数かつ多様な市民が選挙に参加するという状態が理想なのではないでしょうか。また、誹謗中傷やヘイトとの関係では、人格非難をされてもすぐには行動せず時間を稼ぐべきだし、追い詰められた場合には、たくさんの人に相談して多様な決断を参照すべきなのです。そのような仕組み作りを、みんなで考えていければいいなと思います。

 駄文失礼しました。