自然と理由

 われわれの生活においては、しばしば、理由の説明を求められることがあります。例えば、「企業は、自社の経営状況について、市場や株主、従業員などのステークホルダーに対して説明する責任がある」とされていますし、「政治家や政府の説明責任が果たされていない」などとコメンテーターが指摘をすることもしばしば見受けられます。このような考え方の裏側には、われわれ人間の判断や行動には理由があるはずだという思想があるように思います。特に、「通常」や「原則」と異なる行動をとった際には、その説明責任の程度は高くなるように思います。
 そして、昨今では、人間だけでなくAIについても説明責任を果たさせるべきだという意見も出ています。私は情報技術について詳しくありませんが、深層学習などのソフトの技術は爆発的に進歩している上、ハードの演算能力も指数関数的に向上しており、画像処理を中心に、AIが人間を超える判断をしつつあるそうです。医療現場では、専門の医師でさえ気が付かなかった治療法を提案するAIもあると聞きました。このように、AIの能力は、だれもが認めるところとなりつつありますが、AIの専門家によれば、AIには、AIの判断の理由を説明する能力はないそうです。この点をとらえて、AIが人間には検証できない判断過程に基づき、結論だけを提示することに危機感を覚え、人間がAIに隷従しないためにも、AIにも説明責任を果たさせてほしい、と意見しているようです。
 これについては、情報技術の専門家から、次のような反論がなされているようです。つまり、そもそも、自然自体に究極的な理由などないのに、自然をあるがまま認識するAIに説明責任を求めること自体が見当違いである、というものです。彼らの主張の詳細はよくしりませんが、おそらく、「意味づけ」という過程自体、人間が勝手に行っている固定観念なのだから、それを「AI」に押し付けても、自然をあるがまま認識するAIには「理由」など応えようがない、というもののように思われます。
 この指摘は、おそらく正しいのでしょう。そもそも、科学の歴史自体が、人間の思い込みを打ち破る事実の発見や推論の連続だったわけで、「意味付け」を「意味付け」で覆してきたあゆみなのです。例えば、天文学や物理学の世界だけでも、天動説が地動説に打ち破られ、ニュートン物理学が相対性理論にとってかわられてきた歴史がありますし、はるか昔は、神話が自然現象の理由として使われていました。このように、科学も神話も、特定の時代や地域の人間にとって、自然現象を理解可能にするための、人間中心の意味づけの手段なのです。つまり、これからも、自然科学は、時代や地域に応じて発展していくとしても、せいぜい、人間による暫定的な解釈を、パラダイムとして更新し続けることしかできず、人間はいつまでたっても自然をあるがまま理解することなど不可能なのではないでしょうか。
 そうだとすれば、AIと人間では、そもそも自然に対するアプローチが異なります。人間は人間中心に自然を観察して推論しますが、AIは人間も自然の一部として認識して結論を提示します。AIと人間の間に、このような通訳不可能性がある中で、AIが人間に理解可能な説明責任を果たすことなどできないように思われます。結局、AIの結論は、人間が解釈して、人間に説明するほかないのです。
 このような哲学的状況は、法にいかなる影響を与えるでしょうか。仮に、人間がAIに説明責任を求めない生活に慣れてしまい、人間にも説明責任を求めなくなった場合、法はどうなるでしょうか。具体的には、いちいち説明責任を求めることができないほどに、AIが生活に密接にかかわるようになったら、法はどうなるのでしょうか。思考実験をしてみましょう。
    法は、規範の領域であり、人間の活動を正当化したり非難したりする「根拠」となりますので、「意味づけ」そのものです。人間が「意味づけ」を求めなくなれば、「法」の世界にも正当化や非難の「根拠」が求められなくなるため、「法」である必要はなくなり、「コード(規格)」で十分になるのです。このような状況に対して、AIに法人格を認めて、AIを保険等に加入させる形で責任を取らせようとする意見もあるようですが、そもそも、説明責任を果たせないAIに法人格を与えたところで、規範が復権することはなく、それは「コード」でしかないのではないでしょうか。
この思考実験のような段階に至れば、以前紹介した、「コードが法にとってかわる」世界が現れるのかもしれません。
    駄文失礼いたしました。