シェアの思想に向けた準備

    皆さんは、カーシェアなどを利用されていますか?公共交通機関の発達した都市部においては、一般的になりつつあると思います。また、日本では白タク行為として禁止されていますが、世界的にはライドシェアも広がりつつあります。もっとも両者の違いについて、よくわからない方もいると思います。

 前者は、主に、事業者が所有する車両を会員が短時間利用するという、レンタカーの一種(賃貸借契約)と理解するのがわかりやすいように思います。後者は、個人が所有する車両を配車仲介の上、旅客運送をするという、タクシーの一種(請負契約)と理解するのがわかりやすいでしょう。

 このように、モビリティ分野におけるシェアリングエコノミーは、他分野と比較して、発展が早いように感じます。理由は多々ありますが、人間が物理的存在である以上、貧富を問わず移動という動作が不可欠である一方、現代人の多くは、目的地に適正料金や適正所要時間でたどり着ければそれでいいのであって、経路や運転手にさほど興味がないことが中心でしょうか。もちろん、需要者と供給者または車両とのマッチングを可能にする情報技術の発達が前提条件となります。

 一方で、われわれの中には、シェアというときに、なんともいえない気持ち悪さを覚える方もいるかもしれません。誰が使ったかわからない乗り物に自分も乗ることや、知り合いでもない人間が運転する自動車に乗る違和感といったものです。ほかにも、レンタカーは許容できても白タクは無理だ、という方もいるでしょう。前者は有名企業から借りるから信頼できるが、後者は職業運転手でもない見ず知らずの個人に発注するから不安である、といったところでしょうか。このあたりの違和感のグラデーションは、各人の人生経験に由来するように思います。例えば、貸し借りでつらい思いをしてきた方ほどシェアに消極的であるように思います。

 いずれにせよ、現代の日本では、交通インフラの維持が困難な地方においてこそ、カーシェアやライドシェアが有効だと言われています。もっとも、このような指摘に反し、地方よりも都市部においてこそシェアリングエコノミーは機能しているように思います。

 なぜでしょうか。

    第一には、前述の不安感があるでしょう。日本の場合、都市部の住民よりも、地方の住民の方が保守的傾向にあるように思われ、地方の住民は、マッチング技術のブラックボックス性の高さや供給者の匿名性の高さ、供給者の専門性の担保の欠如に対して、得体の知れない違和感を抱いているのでしょう。

 この不安感のうち、供給者の匿名性や専門性については、アカウント制度や利用者による評価制度を充実させることである程度は担保できますが、マッチング技術自体のブラックボックス性についてはなかなか難しいものがあります。アルゴリズムを一般的に説明できるとしても、それを理解し、個別の事案に適用することは、並の人間の処理能力では不可能です。もっとも、マッチング理論の基礎を教育しておくくらいは可能でしょう。

 また、第二に、地方の一部には、シェアリングエコノミーを代替する、コミュニティ機能がかろうじて残存する地域も、極めて少数ながらあるように思います。いわゆる共助と呼ばれるもので、ご近所さんで助け合っているわけです。このような地域もいずれ限界に到達するので、この点は時間の問題でしょう。

 さらに、第三に、所有に対する欲望というものもあるでしょう。近代社会は所有概念を中心に据えることで資本主義市場経済を発達させてきました。所有権が保護されない社会、すなわち窃盗や詐欺が違法でない社会では、安心して経済活動をし、資本蓄積をするということができません。そのため、窃盗や詐欺を違法とし、財物の私的処分・利用を肯定する法理としての所有権制度は、市場経済が成り立つ条件の一つといえるでしょう。

 ところが、人間というものは面白いもので、近代における所有権の発明によって、人間は所有という欲望そのものも肯定しました。人間の立場で見れば、所有は、単なる条件にとどまらず、善の対象、つまり、財をなして投資や消費をすることが社会的に望ましいこと、となったのです。所有権を単なる条件を超えて思想的に位置づける必要があったという点は、人類の歴史の綾、経路依存の妙といえるでしょう。欧州では、近代化に先立ち、キリスト教カトリック的な価値観の普遍化とカトリック教団の腐敗が起こっていたため、所有権を、条件というだけでなく、所有欲として肯定することでキリスト教カトリックを乗り越えていったように思われます。リベラリズムには、その端緒においてさえ、市場主義を超える含意があったということを確認しておいてもよいでしょう。

 さて、この所有欲を解消する方法はあるのでしょうか。もちろん、シェアリングエコノミーにおいても、所有権という概念はなくなりませんので、市場経済が消滅するということはありません。ここでは、もっぱら、歴史の綾の部分、欲としての所有、を問題にしたいのです。極論、所有は悪である、という思想になれば、所有に対する欲は解消され、シェアにも抵抗がなくなるのでしょうが、はたして資本主義経済でそのようなことは可能なのでしょうか。

 私見としては、所有自体を悪とすることはできないけれども、欲望の数や種類を増やすことができれば、所有に割くことのできる資源が限られ、結果的に所有欲が強調されない社会になるとは思います。あるいは、みんなで貧しくなれば、所有する余力もなくなるでしょう。後者のような解決はできれば避けたいので、前者のような解決の方がベターだとは思いますが、人間の欲の数や種類を増やすというのもそれはそれで危険性もあると思っています。つまり、生物学的に不可欠でない欲を喚起する社会に作り替えるということであり、まだ見ぬ欲に対して人間がどう振る舞うのか、悲観的なものの見方もありうると思います。特に、感情との関連性が強い一方で、理性との関連性の低い欲求であるにもかかわらず、そのような欲求の対象となる財やサービスを人間社会に不可欠なものとして位置づける場合には、非常に高い危険性が潜むように思います。なぜなら、そのような欲求とは、おそらく、アイデンティティや帰属に関わる欲求か本能に関わる欲求であるように思われ、前者については、一歩間違えれば、村社会化しかねないですし、後者については、自己抑制をきかせることが非常に困難なように思うからです。

 アイデンティティに関する欲求については、常に、いつでも、乗り換え自由である、という状態を作る必要があるでしょう。居心地が悪くなったら、すぐに、別の居場所に移れるようにすべきですし、常時、複数の居場所も確保すべきでしょう。

 本能に関する欲求については、人間に対して、警告や通知をするシステムが不可欠でしょう。つまり、ご利用は計画的に、という文言を頻繁に表示したり、意思確認を求める画面をしつこく表示したりするのです。場合によっては、利用量(時間など)で制限をかけるべきかもしれませんし、規制の結果、満たされなくなる欲望を発散させるための遊び場も用意しておく必要があるでしょう。

 このように、所有という欲を解消するのはなかなかに大変に思えますが、所有欲は思想的な部分ですから、世代交代がすすみ、思想が入れ替われば、可能なように思います。

 もっとも、これらの取り組みによって人類が幸せになるかは別問題でしょう。

 以上、シェアリングエコノミーを通して、人間の欲望について簡単に考えてみました。前回までの議論が理性重視の議論でしたので、今回は、感情中心の議論にすることでバランスをとってみたつもりです。21世紀は、理性中心型の思想と感情中心型の思想の両系統を維持しておく必要があると思うからです。

 駄文失礼いたしました。