自由意思はあるのか?

   皆さんは、スマホにアプリをダウンロードする際に、アプリの利用規約を読んでいますか?おそらく、多くの方は、全く読むこともなく、「同意する」「次へ」という部分をタップすることの方が多いのではないでしょうか。

 法学の世界では、人間は(自由)意思に基づき行為すると考えられており、意思があるからこそ、行為による責任を負ったり、行為による利益を享受したりすることが正当化されてきました。この原理は、資本主義市場経済を駆動させ、競争を促進させることと非常に相性が良く、人類を発展に導いたと言っても過言ではないでしょう。

 しかし、われわれに意思があるのか、と問われると、正直良くわからなくなります。冒頭のスマホアプリの例で、利用規約の内容を具体的に理解して使用するという意思があるようには思えません。

 これについては、多くの先達が頭を悩ませてきました。

 ある者は、人間にあるのは、欲望と行動だけで、それらを介在する意思などないといいます。例えば、「職場に移動したい」という欲望があることは間違いないし、「電車に乗った」という行動があることも確実ですが、それらの間に「鉄道各社との間の鉄道旅客運送約款を確認して同意する」という事実はありません。また、多くの新入社員は、上司や先輩に言われたことをやっているだけで、意思の要素は希薄なのではないでしょうか。さらには、酔っぱらって帰宅する際、経路も何も覚えていないが、朝自宅の廊下で目覚めたということもあるでしょう。ほかにも、依存症患者が自由な自己決定にもとづいて薬物やアルコール、ギャンブルに手を出している、と言い切れるでしょうか。意思などフィクションだという主張もあながち排斥できません。

 またある者は、意思がないとまでは言わないが、自由とは本来的には行動の問題でもあるはずで、意思の問題のみに注力しすぎた結果、いびつな意思主義になったのではないかともいっています。もともと、近代的な自由とは、奴隷を開放して行動の自由をもたらすことに主眼があったはずで、奴隷でも有していた内心の自由を殊更に強調するのは不自然である、というのです。この論者には、やや偏った歴史観があるようにも思われますが、意思の自由に比べて行動の自由を脇に置くことが多すぎるのではないかという視点は、傾聴すべきように思います。例えば、ホロコーストなどを想像すればわかるでしょう。ナチス体制下でユダヤ人は居住地域を制限されただけでなく、強制収容所へと強制的に連行され、殺害されていったわけですが、ここでは、行動の自由を無視してはならないと思います。

 さて、現代ではいかに考えればよいのでしょうか。これからはICTやAIの時代と言われていますが、これまで以上に意思の要素が希薄化することが懸念されています。なぜなら、AIなどが、最適処理された結果を自動的に実現してくれるかもしれないからです。このような状況になれば、人と人の関係においても、協議をして意思を合致させるという「契約」モデルよりも、インターフェースの仕様さえ揃えておけば良いという「コード」モデルの方が、生活の場面で占める割合が増えるとされています。先ほど紹介した、意思など存在せずフィクションだという方々からすれば、「それみろ。意思など観念する必要すらなかったではないか。」といったところでしょうか。

 私としては、ICTやAIの時代になっても、意思の問題はなくなるどころか、むしろ強調されていくように思います。生産活動はAIに任せてしまって、欲望や感情と真剣に向き合い、意思を再考する未来もありうるのではないでしょうか。実際、SNSは感情のはけ口のように利用されており、われわれに意思とはなにかについて再考を促しているように思えます。

 駄文失礼いたしました。