人柄か能力か

   働き方改革、リモートワーク、同一労働同一賃金など、昨今は労働分野における構造改革がめざましい状況にあります。これらは、新卒一括採用、年功序列、終身雇用という日本型雇用慣行が見直され、生産性の向上を図ろうとするものです。正直、生産性の向上自体が自己目的化されつつあるきらいも強く、肝心の成果物が見過ごされがちな気がしますが、いずれにせよ、変革の時期にあります。

 社会学者の中には、日本型雇用は能力よりもメンバーシップを重視する雇用関係であることが解雇実務によく現れている、と指摘する者もいます。つまり、整理解雇事例を除けば、解雇理由として、能力不足よりも協調性不足という理由で解雇されている事例の方が多い、という指摘なのですが、この指摘は正しいのでしょうか。本当に、かつての日本人は能力よりも人柄や協調性を重視していたのでしょうか。

 20世紀型工業社会においては、ラインに沿って製品や半製品を生産する必要があり、ラインにおけるチームの連携が非常に重要でした。皆まで言わずとも、あうんの呼吸ですりあわせることができなければ、日本が競争力を有していた、集約性の高い小型製品を作ることは難しかったのです。狭い体積に細かい部品を設置していくわけですから、微々たる誤差も許されません。まさに、労働者各人が空気を読まないと、製品を生産できなかったのであって、協調性も労働者の重要な能力だったのです。

 ところが、現代の情報化社会では、ライン作業のように、人の手で製品を作ることがなくなりました。機械やソフトウェアが作ってくれるのです。そして、機械やソフトウェアは人間と異なり、物理的にネットワーク化することができる開放型の認知系ですので、協調性も何も、直接つなげてしまえばよいのです。つまり、協調性を人間が担当する必要がなくなり、人間においては、協調性以外の要素が重要視されるようになりました。

 このように考えると、かつての日本は、当時の産業構造・社会構造を前提にすれば、他国と比較しても極めて効率的だったものと思われ、日本人が能力よりも人柄を重視してきたとの評価は安直な気がします。むしろ、日本人は、今も昔も、生産活動の現場において、効率性を求めていることには変わりがなく、効率性の意味する内容が具体的なレベルで変わっただけ、ということの方が正しいように思います。協調性を重視することで実際に成果が上がっていた社会から、別の要素を重視する方が成果の上がる社会に変わったということであって、日本人が昔は成果や生産性を軽んじていたわけではないように思います。本当にかつての日本社会が非効率なら、20世紀型の資本主義経済においてさえも、経済大国になることなどできなかったはずです。

 冒頭の解雇事例の研究は、時代に応じて効率性の具体的な意味が変わっていくため、効率的な能力の意味するものが変わっていくことを示す研究として捉える方がよいと思います。

 駄文失礼いたしました。