経済によるアソシエーションの再生

 前回が生産の話でしたので、今回は消費の話をしてみたいと思います。

 現代の消費社会では、モノからコトへということが言われています。モノがあふれた現代では、モノよりもコトの方に消費者は魅力を感じている、ということのようです。ブランド品や自動車を購入するよりも、お気に入りの著名人のイベントやキャンプに足を運ぶのです。

 一方、コト消費においては、コミュニティ・アソシエーションが形成されつつあるように思います。モノ消費を促進した市場経済システムにおいては、供給者と需要者で価格が一致すれば、誰でも取引できる、自由で公平な社会が理想とされました。そこでは、個人は匿名化され、アイデンティティは半ば消失しており、コミュニティがないことによって村八分にも合わないという長所がありました。

 ところが、近年のコト消費においては、フィンテックの文脈ではありますが、ファンクラブやオンラインサロンなど、コミュニティ・アソシエーションが発生しています。海外では、日本ほどオンラインサロンが流行っていないかわりに、クラウドファンディングがより一般的です。海外では日本と異なり、寄付文化が根付いているため、オンラインサロンのような「お月謝制」をとらずとも、クラウドファンディングで資金などの調達ができる素地があると言われています。

 コミュニティ・アソシエーションが生まれることによって、物語が生じ、コト消費は充実していきます。物語は、事実を意味づけする作業ですが、コト消費におけるオンラインサロンでは、メンバーが物語を紡いでいることに自覚的になれる点が特殊です。モノ消費自体にも、モノに物語性があったわけですが、モノが与えてくれる物語は、往々にして、購入者が授かることが多く、購入者自らが発見し紡いでいく物語とは一線を画す、無自覚なものだったように思います。

 そして、コト消費が一般化すれば、コト消費とコト消費を結ぶエコシステムに価値が生じるようになるでしょう。モノ消費の時代にもエコシステムはあったわけですが、コト消費ではより自覚的な物になると思いますし、コミュニティ・アソシエーション同士のブリッジングが鍵になると思います。

 このようにして生成されたコミュニティ・アソシエーションとエコシステムは、トクヴィルが指摘する、中間的組織になれる可能性があります。中間的組織が復権すれば、健全な民主主義社会に回帰できるかもしれません。長期のスパンで考える必要がありますが、自由主義優位の和解においても、健全な民主主義は重要ですし、各主義の担当領域は可変的なものですから、民主主義が健全なら、民主主義の担当領域も見直すことができると思います。

 消費という経済的要素から、民主主義という政治的要素を再構築できるのか。経済が肥大化した現代だからこそ、挑む価値のある構想に思えます。

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人柄か能力か

   働き方改革、リモートワーク、同一労働同一賃金など、昨今は労働分野における構造改革がめざましい状況にあります。これらは、新卒一括採用、年功序列、終身雇用という日本型雇用慣行が見直され、生産性の向上を図ろうとするものです。正直、生産性の向上自体が自己目的化されつつあるきらいも強く、肝心の成果物が見過ごされがちな気がしますが、いずれにせよ、変革の時期にあります。

 社会学者の中には、日本型雇用は能力よりもメンバーシップを重視する雇用関係であることが解雇実務によく現れている、と指摘する者もいます。つまり、整理解雇事例を除けば、解雇理由として、能力不足よりも協調性不足という理由で解雇されている事例の方が多い、という指摘なのですが、この指摘は正しいのでしょうか。本当に、かつての日本人は能力よりも人柄や協調性を重視していたのでしょうか。

 20世紀型工業社会においては、ラインに沿って製品や半製品を生産する必要があり、ラインにおけるチームの連携が非常に重要でした。皆まで言わずとも、あうんの呼吸ですりあわせることができなければ、日本が競争力を有していた、集約性の高い小型製品を作ることは難しかったのです。狭い体積に細かい部品を設置していくわけですから、微々たる誤差も許されません。まさに、労働者各人が空気を読まないと、製品を生産できなかったのであって、協調性も労働者の重要な能力だったのです。

 ところが、現代の情報化社会では、ライン作業のように、人の手で製品を作ることがなくなりました。機械やソフトウェアが作ってくれるのです。そして、機械やソフトウェアは人間と異なり、物理的にネットワーク化することができる開放型の認知系ですので、協調性も何も、直接つなげてしまえばよいのです。つまり、協調性を人間が担当する必要がなくなり、人間においては、協調性以外の要素が重要視されるようになりました。

 このように考えると、かつての日本は、当時の産業構造・社会構造を前提にすれば、他国と比較しても極めて効率的だったものと思われ、日本人が能力よりも人柄を重視してきたとの評価は安直な気がします。むしろ、日本人は、今も昔も、生産活動の現場において、効率性を求めていることには変わりがなく、効率性の意味する内容が具体的なレベルで変わっただけ、ということの方が正しいように思います。協調性を重視することで実際に成果が上がっていた社会から、別の要素を重視する方が成果の上がる社会に変わったということであって、日本人が昔は成果や生産性を軽んじていたわけではないように思います。本当にかつての日本社会が非効率なら、20世紀型の資本主義経済においてさえも、経済大国になることなどできなかったはずです。

 冒頭の解雇事例の研究は、時代に応じて効率性の具体的な意味が変わっていくため、効率的な能力の意味するものが変わっていくことを示す研究として捉える方がよいと思います。

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不倫報道の一体感

 毎年のように、有名人の不倫報道が世間の耳目を引き、炎上していますが、人間はなぜ不倫報道に関心を持つのでしょうか。自分が当事者であれば、あるいは自分の知人であれば、無関心でいられないというのもわかりますが、有名人と知人であることなどほとんどなく、よその家庭の問題のはずです。それなのに、なぜ関心をもつのでしょうか。

 生真面目な論者からは、一夫一妻制という日本法を擁護するために批判の声をあげるのだ、という理性的な意見があるでしょうが、それならば、制度論の範囲内ですべきであって、それを超えて、他人に罵声を浴びせるべきではありません。私には、不倫報道の際のツイッターの投稿などは、制度論的擁護には思えません。

 少々真面目な論者からは、明日は我が身だから他人事とは思えない、という感情的な意見もあるようです。この人たちにとっては、有名人のプライベートまで自分事の範疇なのでしょうか。ただ、この立場においてさえも、友人に対するのと同レベルの叱咤激励は許されても、人格非難まで許されるわけではないでしょう。

 では、不倫報道に際して、有名人に心ない言葉を浴びせる人たちは、どういう動機で叩いているのでしょうか。前述の理性的な理由でも、感情的な理由でもないように思われ、おそらくは、話題にしたいだけなのだと思います。話題にしたいだけなら、話題を取り上げること自体に意味があるのであって、それに対してどのような切り口でどのような意見を述べるかは、本質的な問題ではありません。その結果、制度論のような議論になることもなければ、愛情あふれる言葉が発せられることもないのでしょう。

 話題にしたいということが自己目的化するとはどういうことでしょうか。これは、コミュニケーションの自己目的化ともいえるかもしれません。コミュニケーションは、情報や意思、感情を伝達するための方法として扱われることが多いのが建前ですが、実際には、コミュニケーションをとること自体が目的化しているのが日常です。例えば、挨拶などがその典型で、挨拶にはほぼ内容はありませんが、人間の社会生活上は重要な機能を果たしています。

 挨拶に代表されるように、自己目的化したコミュニケーションは、安全かつ安心である必要があります。広く共感されることが重要ですから、一枚岩でことが進む必要があり、波風が立つことは好ましくありません。おはよう、と挨拶したのに、あっちむいてほい、などと返されては気味が悪く、おはようと返してほしいのです。裏を返せば、自己目的化したコミュニケーションでは、みんなの共通意見であること自体が重要なため、標的に向けて集中砲火を浴びせる形で一枚岩になることも許容されてしまいます。

 不倫報道の際のツイッターの投稿は、まさに、自己目的化したコミュニケーションに近い気がします。みんなが共感して、投稿、いいね、リツイートすること自体が目的なのです。多くの人が同じ意見に立てるものですから、一体感を味わうことができ、満たされる部分もあるように思います。

 前世紀、人類は一体感と向き合うことに腐心しました。20世紀は全体主義共産主義の時代でもありましたが、これらは、一体性を重視する点で共通します。人類は、一体感がいかに強力であり、飼い慣らす必要があるものなのか、貴い犠牲を払いながら、20世紀を通して学びました。

 インターネットは自由な空間と言われてきましたが、一体感の空間になっていないでしょうか。一体感の空間は、ややもすれば、多数者による専制に陥ります。ネットが一体感の空間にもなりうるとすれば、いかに対処すべきでしょうか。

 この点については、トクヴィルアメリカに関する論評に、一つの回答があるように思います。彼は、民主主義が多数者の専制に陥らないためには、中間的組織こそが重要なのだとしています。今のネットの世界で中間的組織とは何に当たるのか、私にはまだわかりませんが、一つの可能性として、オンラインサロンをあげることができると思います。オンラインサロンには問題点も多いのですが、中間的組織として、インターネット時代の民主主義を支えることになるかもしれません。

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スポーツ

   新型コロナウイルスの影響で一時下火になりましたが、最近では、日本におけるスポーツの位置付けが変化しつつあります。観戦する対象から体験する対象へと変化しました。非日常的な祝祭行事から日常的な生活様式の一部へと変化したということもできるでしょう。今回は、スポーツに詳しくない、運動音痴の私からみた現代スポーツについて考えてみたいと思います。

 私から観れば、上記のような変化の背景には複合的な要素があるように思います。高齢化社会を迎え、健康寿命に関心が集まる中、日常的に運動をすることで疾病を予防しようということで、中高年を中心に、スポーツジムに入会したり、ランニングをしたりすることが一般的になってきました。また、現役世代においても、スポーツをすることはかっこいいこととして受け止められるようにもなっていますし、情報技術の進歩により、身体をマネジメントすることが容易になりました。中高年も現役世代も、「身体は資本」「スポーツをすることも日々のエンタメ」という認識から、運動が日常化したといえるでしょう。

 一方、競技としてのスポーツ、観るスポーツにおいても、変化が訪れています。かつてはアマチュアスポーツこそがスポーツの主要部分でしたが、プロスポーツの領域が膨張し、商業化していきました。巨額のマネーが流入するほか、新技術の実践の場としても利用されているように思います。サッカーや野球、オリンピック競技など、巨額の資本が注入された種目では、最新の情報技術を用いて、これまで「センス」「運動神経」という抽象的な言葉で片付けられていた項目を次々と可視化し、新たな戦術を日々生み出している状況にあります。

 ほかにも、プロスポーツ選手はアスリートと呼ばれるようになるとともに、高い倫理観やプロ意識を要求されるようになりました。書店でも、破天荒な名物選手の武勇伝よりも、リーダーシップやストイックさ、フェアプレーを語る啓発本の方が、よく目に止まるように思います。特に、日本では、「体育会系」という言葉にもあるように、先輩や監督からの命令に絶対に従う気風がありましたが、昨今では、ハラスメント撲滅の観点から、そのような上下関係のようなものを駆逐しつつあるように思います。

 おそらく、これら、観るスポーツとするスポーツにおける変化は、学校での部活動や課外のスポーツ少年団の活動にも大きく影響していくことになると思います。つまり、競技としてのスポーツにおいては、テクノロジーとマネーの影響は不可避でしょうし、アスリートへの倫理的な教育も施されるようになると思います。また、ライフスタイルとしてのスポーツにおいては、いかにして持続可能なものとするか、日常化するか、という点に関心があつまるでしょう。スポーツ少年団も、二極分化していくかもしれません。

 もっとも、観るスポーツにもするスポーツにも横断的に影響を及ぼす要素としては、少子化をあげることができます。少子化が進めば、競技人口・観客数が絶対的に減少することになります。観客の方は、情報通信技術の進展により、全世界を相手にするようになるので、大きな変化にはならないかもしれませんが、競技人口の減少はスポーツのルールなどに影響を及ぼすようになるでしょう。単純に、人が減れば、集団的なスポーツよりも、個人種目の方が取り組みやすくなると思います。

 スポーツが拡大することで、経済・法の論理もスポーツに侵入していきます。商業面だけでも、経済法、労働法、知的財産法、電波関連法制などとの関連も増していくと思います。スポーツの日常化によっても、個人の情報を継続的に収集する各種健康アプリなど、情報の利活用の問題と直面することになります。スポーツに関与する人の割合が増え、普遍性が高くなれば、法的問題が増えるのは当然と言えば当然なのですが、日本人の多くは、スポーツと法がアンドでつながれることに違和感を覚える方も少なくないのではないでしょうか。

 社会化するスポーツにおいては、様々なスポーツ論が提出されているところです。経済なり、法なり、テクノロジーなり、皆さんの好きな切り口でスポーツを見直してもよいかもしれません。

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シェアの思想に向けた準備

    皆さんは、カーシェアなどを利用されていますか?公共交通機関の発達した都市部においては、一般的になりつつあると思います。また、日本では白タク行為として禁止されていますが、世界的にはライドシェアも広がりつつあります。もっとも両者の違いについて、よくわからない方もいると思います。

 前者は、主に、事業者が所有する車両を会員が短時間利用するという、レンタカーの一種(賃貸借契約)と理解するのがわかりやすいように思います。後者は、個人が所有する車両を配車仲介の上、旅客運送をするという、タクシーの一種(請負契約)と理解するのがわかりやすいでしょう。

 このように、モビリティ分野におけるシェアリングエコノミーは、他分野と比較して、発展が早いように感じます。理由は多々ありますが、人間が物理的存在である以上、貧富を問わず移動という動作が不可欠である一方、現代人の多くは、目的地に適正料金や適正所要時間でたどり着ければそれでいいのであって、経路や運転手にさほど興味がないことが中心でしょうか。もちろん、需要者と供給者または車両とのマッチングを可能にする情報技術の発達が前提条件となります。

 一方で、われわれの中には、シェアというときに、なんともいえない気持ち悪さを覚える方もいるかもしれません。誰が使ったかわからない乗り物に自分も乗ることや、知り合いでもない人間が運転する自動車に乗る違和感といったものです。ほかにも、レンタカーは許容できても白タクは無理だ、という方もいるでしょう。前者は有名企業から借りるから信頼できるが、後者は職業運転手でもない見ず知らずの個人に発注するから不安である、といったところでしょうか。このあたりの違和感のグラデーションは、各人の人生経験に由来するように思います。例えば、貸し借りでつらい思いをしてきた方ほどシェアに消極的であるように思います。

 いずれにせよ、現代の日本では、交通インフラの維持が困難な地方においてこそ、カーシェアやライドシェアが有効だと言われています。もっとも、このような指摘に反し、地方よりも都市部においてこそシェアリングエコノミーは機能しているように思います。

 なぜでしょうか。

    第一には、前述の不安感があるでしょう。日本の場合、都市部の住民よりも、地方の住民の方が保守的傾向にあるように思われ、地方の住民は、マッチング技術のブラックボックス性の高さや供給者の匿名性の高さ、供給者の専門性の担保の欠如に対して、得体の知れない違和感を抱いているのでしょう。

 この不安感のうち、供給者の匿名性や専門性については、アカウント制度や利用者による評価制度を充実させることである程度は担保できますが、マッチング技術自体のブラックボックス性についてはなかなか難しいものがあります。アルゴリズムを一般的に説明できるとしても、それを理解し、個別の事案に適用することは、並の人間の処理能力では不可能です。もっとも、マッチング理論の基礎を教育しておくくらいは可能でしょう。

 また、第二に、地方の一部には、シェアリングエコノミーを代替する、コミュニティ機能がかろうじて残存する地域も、極めて少数ながらあるように思います。いわゆる共助と呼ばれるもので、ご近所さんで助け合っているわけです。このような地域もいずれ限界に到達するので、この点は時間の問題でしょう。

 さらに、第三に、所有に対する欲望というものもあるでしょう。近代社会は所有概念を中心に据えることで資本主義市場経済を発達させてきました。所有権が保護されない社会、すなわち窃盗や詐欺が違法でない社会では、安心して経済活動をし、資本蓄積をするということができません。そのため、窃盗や詐欺を違法とし、財物の私的処分・利用を肯定する法理としての所有権制度は、市場経済が成り立つ条件の一つといえるでしょう。

 ところが、人間というものは面白いもので、近代における所有権の発明によって、人間は所有という欲望そのものも肯定しました。人間の立場で見れば、所有は、単なる条件にとどまらず、善の対象、つまり、財をなして投資や消費をすることが社会的に望ましいこと、となったのです。所有権を単なる条件を超えて思想的に位置づける必要があったという点は、人類の歴史の綾、経路依存の妙といえるでしょう。欧州では、近代化に先立ち、キリスト教カトリック的な価値観の普遍化とカトリック教団の腐敗が起こっていたため、所有権を、条件というだけでなく、所有欲として肯定することでキリスト教カトリックを乗り越えていったように思われます。リベラリズムには、その端緒においてさえ、市場主義を超える含意があったということを確認しておいてもよいでしょう。

 さて、この所有欲を解消する方法はあるのでしょうか。もちろん、シェアリングエコノミーにおいても、所有権という概念はなくなりませんので、市場経済が消滅するということはありません。ここでは、もっぱら、歴史の綾の部分、欲としての所有、を問題にしたいのです。極論、所有は悪である、という思想になれば、所有に対する欲は解消され、シェアにも抵抗がなくなるのでしょうが、はたして資本主義経済でそのようなことは可能なのでしょうか。

 私見としては、所有自体を悪とすることはできないけれども、欲望の数や種類を増やすことができれば、所有に割くことのできる資源が限られ、結果的に所有欲が強調されない社会になるとは思います。あるいは、みんなで貧しくなれば、所有する余力もなくなるでしょう。後者のような解決はできれば避けたいので、前者のような解決の方がベターだとは思いますが、人間の欲の数や種類を増やすというのもそれはそれで危険性もあると思っています。つまり、生物学的に不可欠でない欲を喚起する社会に作り替えるということであり、まだ見ぬ欲に対して人間がどう振る舞うのか、悲観的なものの見方もありうると思います。特に、感情との関連性が強い一方で、理性との関連性の低い欲求であるにもかかわらず、そのような欲求の対象となる財やサービスを人間社会に不可欠なものとして位置づける場合には、非常に高い危険性が潜むように思います。なぜなら、そのような欲求とは、おそらく、アイデンティティや帰属に関わる欲求か本能に関わる欲求であるように思われ、前者については、一歩間違えれば、村社会化しかねないですし、後者については、自己抑制をきかせることが非常に困難なように思うからです。

 アイデンティティに関する欲求については、常に、いつでも、乗り換え自由である、という状態を作る必要があるでしょう。居心地が悪くなったら、すぐに、別の居場所に移れるようにすべきですし、常時、複数の居場所も確保すべきでしょう。

 本能に関する欲求については、人間に対して、警告や通知をするシステムが不可欠でしょう。つまり、ご利用は計画的に、という文言を頻繁に表示したり、意思確認を求める画面をしつこく表示したりするのです。場合によっては、利用量(時間など)で制限をかけるべきかもしれませんし、規制の結果、満たされなくなる欲望を発散させるための遊び場も用意しておく必要があるでしょう。

 このように、所有という欲を解消するのはなかなかに大変に思えますが、所有欲は思想的な部分ですから、世代交代がすすみ、思想が入れ替われば、可能なように思います。

 もっとも、これらの取り組みによって人類が幸せになるかは別問題でしょう。

 以上、シェアリングエコノミーを通して、人間の欲望について簡単に考えてみました。前回までの議論が理性重視の議論でしたので、今回は、感情中心の議論にすることでバランスをとってみたつもりです。21世紀は、理性中心型の思想と感情中心型の思想の両系統を維持しておく必要があると思うからです。

 駄文失礼いたしました。

自由主義優位の和解構想

 さて、前回は、民主主義と自由主義の和解について二つの構想を提示しました。和解の条件としては、民主主義と自由主義の双方を半ば放棄するAI構想と、民主主義に少し譲歩してもらうリベラルな構想を提示しました。ということは、自由主義に少し譲歩してもらう民主主義的構想も、論理的にはありうるわけですが、私がこれを積極的には説明しなかった理由について少し触れてみたいと思います。

 自由主義に譲ってもらう、ということは、端的に言って、民主主義によって決定できる領域を拡張するということです。この場合、国政レベルでは、国会の権限は拡張するでしょうし、地方自治レベルでは首長や地方議会の権限が拡張することになるでしょうから、結果的に司法の領域を削減していくことになると思います。

 司法の領域を削減した場合、どのような世界が待っているでしょうか。例えば、違憲立法審査権なるものは、大幅に後退すべきかもしれません。なんせ、司法が政治にNOといえる制度な訳ですから、そのような権限は削減すべきでしょう。このようなことを積み重ねていけば、おそらく、多数者による専制に陥るのではないでしょうか。

 多数者による専制とは、いかなる条件で成立するのでしょうか。多数者の専制に陥らず、多数派の判断の正しさを確保するには、数学的にいくつかの条件がありますが、これらをすべて満たすことは非常に困難です。SNS論の話と関わりますが、「情報収集には励むものの、他人に流されない、独立した思考力を持った強い個人」が多数決に参加するという条件を想定しなければならないのです。私自身、こんな強い個人になんて、なれそうもありません。ほぼ間違いなく、多数者による専制になるでしょう。

 多数者による専制においては、いかに多数派工作をするかという点が重要になり、感情に訴えかけるものになりがちです。そこでは、社会という含蓄のあるかけ算的集合を、ヒトという生物種の足し算的集合に還元していくことになると思いますが、これを歴史的に振り返ると、全体主義に向かってしまう、ということになるのではないでしょうか。

 このような理由から、民主主義優位の和解構想を積極的には紹介しませんでした。

 一方で、自由主義優位の和解構想も、なかなかにエリート主義だと言われそうです。つまり、数多ある専門知を議論の場を通じて民主化するなど、およそ実現不能であって、それは、専門家やエリートのおごりである、人間は24時間365日の有限な生を生きているのだから、あらゆる専門知識を総合的に民主化するなど、できっこない、という批判です。正直言って、非常に説得力のある批判と思います。

 最近では、クラウドローという活動があり、熱心な企業家たちがこれを積極的に広めようとしています。詳細はインターネットなどで調べていただきたいですが、これは、ロビイングのような活動ではなく、立法を生活レベルの身近な活動からボトムアップ的に考えることで、広く市民参加を促しつつ、専門家との対話を通じて、民主的教育と専門家の偏狭な視野の拡張を図ろうとする活動です。自由主義優位の和解構想を、身近な問題という民主的議題で実現することで、両思想の中和を図っているように感じます。

 つまり、問題設定は民主的に行い、問題解決は専門的に行うのです。最終的な解決策を専門家が提示する点で自由主義優位といえるでしょうが、問題設定に民主的参加がある点で民主主義とも役割分担をするのです。SNS論で取り上げた話にならえば、情報収集は民主的に広く参加して行うが、意思決定自体は社会的距離をとった専門的知見から行うということだと思います。

 ほかにも和解の構想はあるのかもしれません。今後も考えていきたいと思います。

 駄文失礼いたしました。

新たな和解の構想

 前回の続きの話をしていきたいと思います。

 自由主義と民主主義の和解を、エリートと大衆の階級的な和解という観点から論じることを試みようとしたところでした。いくつか、試論してみましょう。

 まず、古典的な手法から検討しましょう。

 人類史において、エリートと大衆が比較的に闘争することなく存続した社会として、神を頂点とした宗教的な階級社会をあげることができます。神という人間を圧倒的に超越する絶対的存在を観念することで、人間界の階級差など神からすれば問題外である、という構想です。神から見れば、エリートも大衆も、どんぐりの背比べであるから、「あの世」「来世」に向けて、人間同士が争うこと自体が馬鹿馬鹿しい、という感覚でしょうか。

 これを近代風にアレンジした構想が、国民国家における、教養主義でしょう。近代国家はもはや宗教に頼ることができません。そこで、宗教に変わる物語を用意したのです。つまり、国民が正しい知識を共有し、価値観を共有することで、平和的な共和国に至るという物語です。

 結果的に言えば、この教養主義の構想は失敗します。高等教育機関は世界各地に設置され、初等・中等教育も義務教育化などにより、人類史上かつてないほど普遍化したといいうるでしょう。それにもかかわらず、近代人が夢見た、智を愛する教養人が現れることはありませんでした。現れたのは、せいぜい、自分が好きな分野について素人よりも多くの情報を有する、欲深い専門家でしかありませんでした。知識が蛸壺化した背景としては、中央集権的な教育システムと知識の膨張があるように思います。つまり、知識が爆発的に膨張する中、これを中央集権的に情報処理するには、縦割り型の専門分化で対処するほかなかったのではないか、と考えています。

 このように、現代社会においては、前近代型・近代型のいずれのモデル手法も実現できないことが明らかになっており、新たな物語・構想を欲しているのです。

 これについては、現状、大きく二つの方向性が示されているように思います。

 まず、自然科学の分野からは、AIやICTが新たな物語を提供してくれる、という声があります。法治国家といっても、結局、法を運用するのは、行政官や裁判官、そのほかの多くの経済主体たる人なのであって、本質的には人治だから、争いが起こるのだ、AIやICTに任せてしまえば、人が統治することはなくなり、争いがなくなるのではないかというのです。この声の背景にあるのは、人間は人間を特別視しすぎだ、自然科学的には人間も生物の一種、物質の一種に過ぎず、あるがまま生きるほかないのだ、という脱人間主義的思想です。

 率直に申し上げて、私には、このとてつもない構想を理解できるほどの自然科学の知識がありませんが、直感的に言って、少なくとも、人間社会を人の集合体にまで還元する必要はあるように思います。比喩的に言えば、人間は、社会を構成すると、互いに嫉妬して、あるがまま生きることができなくなるので、これを防ぐためには、単なる人の集まりにとどめておく必要があるのではないか、という直感です。

 次に、人文主義的な手法としては、時間をかけて専門知を民主化していく、という構想があります。民主主義を選挙やデモといった数の場のみに還元せず、議論や検討といった理性に目を向けようというものです。議論や検討の場を重視する以上、時間をかけることに主眼を置くことと同義であり、選挙やデモのようなスピード感はありません。

 個人的には、この人文主義的構想の方がまだ受け入れやすいのですが、現代社会において不可欠とも言うべきスピード感を確保できない点が難点です。要は、専門知を、議論というアリーナを通じて、時間をかけて民主化するという構想であり、人間の認知が閉鎖系である以上、莫大な時間を要するのです。そして、世代が交代するたび、一から積み上げをし直すのです。

 このように、汎神的ともいうべきAIを正面から受け入れる自然科学的手法と、時間をかけてミクロな視点からプラグマティックに教養を積み上げる人文主義的手法と、大きな方向性は二種類あるわけですが、皆さんはどちらに希望を感じますか。私は、自然科学の知識が乏しいためか、後者の方法の方が納得できるのが本音です。しかし、自然科学的知見の増大を誰も止めることはできないでしょう。なんせ便利ですし、実際に多くの人間を救っているわけですから。

 そこで、私見としては、妥協的ではあるものの、両手法のハイブリッドにできればよいと思っています。棲み分けを行い、二系統を温存し妥協することが民主主義と自由主義の和解には必要なのではないでしょうか。

 駄文失礼いたしました。