不倫報道の一体感

 毎年のように、有名人の不倫報道が世間の耳目を引き、炎上していますが、人間はなぜ不倫報道に関心を持つのでしょうか。自分が当事者であれば、あるいは自分の知人であれば、無関心でいられないというのもわかりますが、有名人と知人であることなどほとんどなく、よその家庭の問題のはずです。それなのに、なぜ関心をもつのでしょうか。

 生真面目な論者からは、一夫一妻制という日本法を擁護するために批判の声をあげるのだ、という理性的な意見があるでしょうが、それならば、制度論の範囲内ですべきであって、それを超えて、他人に罵声を浴びせるべきではありません。私には、不倫報道の際のツイッターの投稿などは、制度論的擁護には思えません。

 少々真面目な論者からは、明日は我が身だから他人事とは思えない、という感情的な意見もあるようです。この人たちにとっては、有名人のプライベートまで自分事の範疇なのでしょうか。ただ、この立場においてさえも、友人に対するのと同レベルの叱咤激励は許されても、人格非難まで許されるわけではないでしょう。

 では、不倫報道に際して、有名人に心ない言葉を浴びせる人たちは、どういう動機で叩いているのでしょうか。前述の理性的な理由でも、感情的な理由でもないように思われ、おそらくは、話題にしたいだけなのだと思います。話題にしたいだけなら、話題を取り上げること自体に意味があるのであって、それに対してどのような切り口でどのような意見を述べるかは、本質的な問題ではありません。その結果、制度論のような議論になることもなければ、愛情あふれる言葉が発せられることもないのでしょう。

 話題にしたいということが自己目的化するとはどういうことでしょうか。これは、コミュニケーションの自己目的化ともいえるかもしれません。コミュニケーションは、情報や意思、感情を伝達するための方法として扱われることが多いのが建前ですが、実際には、コミュニケーションをとること自体が目的化しているのが日常です。例えば、挨拶などがその典型で、挨拶にはほぼ内容はありませんが、人間の社会生活上は重要な機能を果たしています。

 挨拶に代表されるように、自己目的化したコミュニケーションは、安全かつ安心である必要があります。広く共感されることが重要ですから、一枚岩でことが進む必要があり、波風が立つことは好ましくありません。おはよう、と挨拶したのに、あっちむいてほい、などと返されては気味が悪く、おはようと返してほしいのです。裏を返せば、自己目的化したコミュニケーションでは、みんなの共通意見であること自体が重要なため、標的に向けて集中砲火を浴びせる形で一枚岩になることも許容されてしまいます。

 不倫報道の際のツイッターの投稿は、まさに、自己目的化したコミュニケーションに近い気がします。みんなが共感して、投稿、いいね、リツイートすること自体が目的なのです。多くの人が同じ意見に立てるものですから、一体感を味わうことができ、満たされる部分もあるように思います。

 前世紀、人類は一体感と向き合うことに腐心しました。20世紀は全体主義共産主義の時代でもありましたが、これらは、一体性を重視する点で共通します。人類は、一体感がいかに強力であり、飼い慣らす必要があるものなのか、貴い犠牲を払いながら、20世紀を通して学びました。

 インターネットは自由な空間と言われてきましたが、一体感の空間になっていないでしょうか。一体感の空間は、ややもすれば、多数者による専制に陥ります。ネットが一体感の空間にもなりうるとすれば、いかに対処すべきでしょうか。

 この点については、トクヴィルアメリカに関する論評に、一つの回答があるように思います。彼は、民主主義が多数者の専制に陥らないためには、中間的組織こそが重要なのだとしています。今のネットの世界で中間的組織とは何に当たるのか、私にはまだわかりませんが、一つの可能性として、オンラインサロンをあげることができると思います。オンラインサロンには問題点も多いのですが、中間的組織として、インターネット時代の民主主義を支えることになるかもしれません。

 駄文失礼しました。