新たな和解の構想

 前回の続きの話をしていきたいと思います。

 自由主義と民主主義の和解を、エリートと大衆の階級的な和解という観点から論じることを試みようとしたところでした。いくつか、試論してみましょう。

 まず、古典的な手法から検討しましょう。

 人類史において、エリートと大衆が比較的に闘争することなく存続した社会として、神を頂点とした宗教的な階級社会をあげることができます。神という人間を圧倒的に超越する絶対的存在を観念することで、人間界の階級差など神からすれば問題外である、という構想です。神から見れば、エリートも大衆も、どんぐりの背比べであるから、「あの世」「来世」に向けて、人間同士が争うこと自体が馬鹿馬鹿しい、という感覚でしょうか。

 これを近代風にアレンジした構想が、国民国家における、教養主義でしょう。近代国家はもはや宗教に頼ることができません。そこで、宗教に変わる物語を用意したのです。つまり、国民が正しい知識を共有し、価値観を共有することで、平和的な共和国に至るという物語です。

 結果的に言えば、この教養主義の構想は失敗します。高等教育機関は世界各地に設置され、初等・中等教育も義務教育化などにより、人類史上かつてないほど普遍化したといいうるでしょう。それにもかかわらず、近代人が夢見た、智を愛する教養人が現れることはありませんでした。現れたのは、せいぜい、自分が好きな分野について素人よりも多くの情報を有する、欲深い専門家でしかありませんでした。知識が蛸壺化した背景としては、中央集権的な教育システムと知識の膨張があるように思います。つまり、知識が爆発的に膨張する中、これを中央集権的に情報処理するには、縦割り型の専門分化で対処するほかなかったのではないか、と考えています。

 このように、現代社会においては、前近代型・近代型のいずれのモデル手法も実現できないことが明らかになっており、新たな物語・構想を欲しているのです。

 これについては、現状、大きく二つの方向性が示されているように思います。

 まず、自然科学の分野からは、AIやICTが新たな物語を提供してくれる、という声があります。法治国家といっても、結局、法を運用するのは、行政官や裁判官、そのほかの多くの経済主体たる人なのであって、本質的には人治だから、争いが起こるのだ、AIやICTに任せてしまえば、人が統治することはなくなり、争いがなくなるのではないかというのです。この声の背景にあるのは、人間は人間を特別視しすぎだ、自然科学的には人間も生物の一種、物質の一種に過ぎず、あるがまま生きるほかないのだ、という脱人間主義的思想です。

 率直に申し上げて、私には、このとてつもない構想を理解できるほどの自然科学の知識がありませんが、直感的に言って、少なくとも、人間社会を人の集合体にまで還元する必要はあるように思います。比喩的に言えば、人間は、社会を構成すると、互いに嫉妬して、あるがまま生きることができなくなるので、これを防ぐためには、単なる人の集まりにとどめておく必要があるのではないか、という直感です。

 次に、人文主義的な手法としては、時間をかけて専門知を民主化していく、という構想があります。民主主義を選挙やデモといった数の場のみに還元せず、議論や検討といった理性に目を向けようというものです。議論や検討の場を重視する以上、時間をかけることに主眼を置くことと同義であり、選挙やデモのようなスピード感はありません。

 個人的には、この人文主義的構想の方がまだ受け入れやすいのですが、現代社会において不可欠とも言うべきスピード感を確保できない点が難点です。要は、専門知を、議論というアリーナを通じて、時間をかけて民主化するという構想であり、人間の認知が閉鎖系である以上、莫大な時間を要するのです。そして、世代が交代するたび、一から積み上げをし直すのです。

 このように、汎神的ともいうべきAIを正面から受け入れる自然科学的手法と、時間をかけてミクロな視点からプラグマティックに教養を積み上げる人文主義的手法と、大きな方向性は二種類あるわけですが、皆さんはどちらに希望を感じますか。私は、自然科学の知識が乏しいためか、後者の方法の方が納得できるのが本音です。しかし、自然科学的知見の増大を誰も止めることはできないでしょう。なんせ便利ですし、実際に多くの人間を救っているわけですから。

 そこで、私見としては、妥協的ではあるものの、両手法のハイブリッドにできればよいと思っています。棲み分けを行い、二系統を温存し妥協することが民主主義と自由主義の和解には必要なのではないでしょうか。

 駄文失礼いたしました。