自由主義優位の和解構想

 さて、前回は、民主主義と自由主義の和解について二つの構想を提示しました。和解の条件としては、民主主義と自由主義の双方を半ば放棄するAI構想と、民主主義に少し譲歩してもらうリベラルな構想を提示しました。ということは、自由主義に少し譲歩してもらう民主主義的構想も、論理的にはありうるわけですが、私がこれを積極的には説明しなかった理由について少し触れてみたいと思います。

 自由主義に譲ってもらう、ということは、端的に言って、民主主義によって決定できる領域を拡張するということです。この場合、国政レベルでは、国会の権限は拡張するでしょうし、地方自治レベルでは首長や地方議会の権限が拡張することになるでしょうから、結果的に司法の領域を削減していくことになると思います。

 司法の領域を削減した場合、どのような世界が待っているでしょうか。例えば、違憲立法審査権なるものは、大幅に後退すべきかもしれません。なんせ、司法が政治にNOといえる制度な訳ですから、そのような権限は削減すべきでしょう。このようなことを積み重ねていけば、おそらく、多数者による専制に陥るのではないでしょうか。

 多数者による専制とは、いかなる条件で成立するのでしょうか。多数者の専制に陥らず、多数派の判断の正しさを確保するには、数学的にいくつかの条件がありますが、これらをすべて満たすことは非常に困難です。SNS論の話と関わりますが、「情報収集には励むものの、他人に流されない、独立した思考力を持った強い個人」が多数決に参加するという条件を想定しなければならないのです。私自身、こんな強い個人になんて、なれそうもありません。ほぼ間違いなく、多数者による専制になるでしょう。

 多数者による専制においては、いかに多数派工作をするかという点が重要になり、感情に訴えかけるものになりがちです。そこでは、社会という含蓄のあるかけ算的集合を、ヒトという生物種の足し算的集合に還元していくことになると思いますが、これを歴史的に振り返ると、全体主義に向かってしまう、ということになるのではないでしょうか。

 このような理由から、民主主義優位の和解構想を積極的には紹介しませんでした。

 一方で、自由主義優位の和解構想も、なかなかにエリート主義だと言われそうです。つまり、数多ある専門知を議論の場を通じて民主化するなど、およそ実現不能であって、それは、専門家やエリートのおごりである、人間は24時間365日の有限な生を生きているのだから、あらゆる専門知識を総合的に民主化するなど、できっこない、という批判です。正直言って、非常に説得力のある批判と思います。

 最近では、クラウドローという活動があり、熱心な企業家たちがこれを積極的に広めようとしています。詳細はインターネットなどで調べていただきたいですが、これは、ロビイングのような活動ではなく、立法を生活レベルの身近な活動からボトムアップ的に考えることで、広く市民参加を促しつつ、専門家との対話を通じて、民主的教育と専門家の偏狭な視野の拡張を図ろうとする活動です。自由主義優位の和解構想を、身近な問題という民主的議題で実現することで、両思想の中和を図っているように感じます。

 つまり、問題設定は民主的に行い、問題解決は専門的に行うのです。最終的な解決策を専門家が提示する点で自由主義優位といえるでしょうが、問題設定に民主的参加がある点で民主主義とも役割分担をするのです。SNS論で取り上げた話にならえば、情報収集は民主的に広く参加して行うが、意思決定自体は社会的距離をとった専門的知見から行うということだと思います。

 ほかにも和解の構想はあるのかもしれません。今後も考えていきたいと思います。

 駄文失礼いたしました。