法人って何?

    私たちは何気なく、「法人」という言葉を使っています。日常生活レベルでは、「個人」の対義語として使われることが多いのではないでしょうか。例えば、銀行の店舗に赴けば、「個人のお客様」と「法人のお客様」で受付票が異なることも多いでしょう。

    しかし、「『法人』という言葉の意味を説明してくれ」と言われると、答えに窮してしまう人が多いのではないでしょうか。私なども、「『会社』とかのことですよ」などとわかったようなことを言って、胡麻化すのが関の山です。

 法律の世界では、自然人(いわゆる「人」のことです)以外で権利主体となることができる存在として、「法人」を規定しています。つまり、「法人」は、生物学上の人でないにもかかわらず、人と同様に、権利主体となることができるのです。ヒューマニズムや中間団体の排除を近代化の端緒として位置付けることができるとすれば、「法人」という人でもない存在に権利能力を認めることの異質性がより明らかになるでしょう。つまり、法人とは一言では説明しきれない、難しい問題なのです。

 以下は私見ですが、この「法人」に対するアプローチについて、法分野によって温度差があり、「法人」という存在が困難な問題であることをよく示しているように思えます。私には詳細をここで説明する能力はありませんが、民法分野においては、法人概念について慎重なアプローチをしており、財産または人を組織化した社会的実体といえてはじめて「法人」として扱っているのに対し、商法分野においては、法人概念を緩和する方向で議論がなされることが多く、形式さえ整えばとりあえず「法人」として扱っている上、挙句、近時は、その形式自体も緩和傾向にあり、情報公開さえされていれば人的・財産的基盤など二の次だとでも言わんばかりに思えます。前者の民法上の慎重例としては、町内会や部活、サークルなどを「法人」としては原則扱わない実務がありますし、後者の商法上の緩和例としては、租税回避目的のペーパー会社やプロジェクトファイナンス関連会社などを挙げることができます。

 このように、私のような社会の末端者からすると、現代においては、法人格を考える上で、大きく二つの方向性があるように思えるのです。私の浅薄な考えですが、人、物、金の組織性に着目して法人格を捉える民法的方向性と、情報とリスクの結合体として法人格を捉える商法的方向性があるように思えるのです。このような方向性の違いの原因は、紛争化する場面の違いにあるのでしょう。具体的には、民法の場面では、当事者が紛争前の時点では社会に対して「法人」であることを宣言していない事例(町内会、部活、サークルなど)で事後的に法人格性が論点となっているのに対して、商法の場面では、当事者が紛争前に社会に対して「法人」であることを宣言している事例(ペーパーではあっても、「会社」と宣言しています)であり、当事者が事前に社会に対して宣言している性質と第三者が事後的に評価する性質とが異なるのか(民法の事例)、同一なのか(商法の事例)、という点に原因があるように思います。

 なお、商法においても、「法人格否認の法理」という例外法理の場面においては、当事者が社会に対して異なる「法人」であると宣言しているのに、事後的評価の場面で同一「法人」であるとして別「法人」性を否定することになるため、事前の宣言と事後の評価で団体の性質が異なることになるのですが、このときは、商法の場面であっても、法人性について、人・物・金等の組織性に着目して判断をしており、民法の事例のように慎重な判断をしています。

 この法人格における、二つの方向性の違い、いわばダブルスタンダードは、説得的なのでしょうか。法学を自然科学に類する学問としてとらえるなら、ダブルスタンダードは許されないことでしょう。しかし、法学は、自然科学ではなく、かろうじて(社会)科学にすることが許されている分野ですので、人間の精神性に由来する限り、つまり市民社会が自然人と同様の権利主体として容認する団体である限り、許容されると考えるべきでしょう。身も蓋もない話になりますが、法学とは、規範性にかかわる学問ですので、人文性と無縁ではいられず、市民社会が当該団体に権利主体性を容認する限りにおいて、当該団体について権利主体性を法的には否定すべき理由はないし、むしろ肯定すべきとも考えられるのです。

 最後は抽象論になりました。駄文失礼いたします。